GALLERY THE PAST CARS





MITSUBISHI LANCER CELESTE 1600GT
1977(S52)




1976年11月にマイナーチェンジを実施し、フェイスリフトを行うと共に
1.6L車のエンジンがサイレントシャフト(バランスシャフト)付の「サターン80」に置換されました。
又、前後に北米仕様の5マイルバンパーを装着したグレード「1600GT」が追加されました。

最初の車です。
高校時代に観た映画「バニシングin60」に登場するマスタングマッハ1に憧れ、
そのデザインに重ね合わせるように憧れた車です。
免許を取得したら必ず買うと決め、18才で免許を取得してから、
市場の中古車を長々と探し歩いて物色しました。
当時、既に絶版車で、なかなか思うように見つからなかった中、
出会ったのがセレステの中でも特にレアな1600GTでした。
三菱といえばGSRのイメージでしたが、
この輸出向けデザインに惚れ込み、貯め込んだ貯金を叩いて購入しました。
よく回るエンジン、内装が6連メーター、3本スポークステアリングでスポーティ、
当時は嬉しすぎてよく乗り回し、僅か半年でエンジンブローです。
若気の至り、残念ながらメンテナンスを施すまでの余裕はなく半年で手放すことになりました。
今でも惚れ惚れと思い出す、生涯の思い出の1台です。

LANCER CELESTE










MITSUBISHI LANCER EX 1800GSR TURBO
1982(S57)



1800ターボ(G62型ターボエンジン)が追加。
5速MTのみの設定でトランスミッションや足回り関係がすべて強化されている。
俗に「ランタボ」と呼ばれるモデルであるが、この当時5eインタークーラーは付いていない。

2台目の車です。
購入当時、三菱が好きなわけでもランサーが好きなわけでもなかったものの、
セレステが不動となり、慌てて探して辿り着いたのが、このランサーでした。
ラリーのイメージは少なからずあったものの、そのこと以外の予備知識などなく試乗したところ、
初めて体験したパワフルなターボ感、その1点に魅了されて決断、購入しました。
今でこそドッカンターボという言われ方ですが、この当時はターボ全盛に向かっていた時代で、
そもそもターボとはこういうものだという印象です。やはり、パワフルで、速かったです。
セレステからの乗り換えで、デザインはお世辞にも好みではなかったものの、
初の4ドアで使い勝手は上々でした。
自分自身が元気な盛りだったこともあり、これまた恥ずかしながらでいろいろと無茶したり、
方向性不明ないじり方に終始したり。良くも悪くも、とことん遊んで学んだ思いで深い1台です。










TOYOTA CORONA MARKⅡ 2000 GRANDE
1982(S57)

デザインは直線基調のデザインとなり、2ドアハードトップは廃止され、
日本国内向けにセンターピラーを持つサッシュレスの「4ドアハードトップ」が登場する。
エンジンはアルミエンジンで直列6気筒の1G-EUと直列4気筒の21R-Uの2種類があり、
5M-EU搭載の2,800ccの「2800グランデ」も登場した。
また、スポーツモデルとして、前期型に限り直列4気筒の18R-GEU搭載の「GT」もあった。
この代まで「コロナ」の名が残っていたが、
車体にCORONAの表記はなく(リアクォーター窓枠に「CORONA MARKII」の表記あり)、
ユーザーや新聞広告・CMでも「マークII」のみの名称で呼ばれるようになっていった。
この4代目から,販売の主力がセダンからハードトップへ移行になった。

3台目です。元来、周りに影響されやすく、若い頃は特にそうした傾向が強かったです。
世は走り屋と言われる峠族ブーム、その一方、街中は、
ソアラ、クレスタ、マークⅡ、チェィサーといったトヨタ車勢に代表されるハイソカーブームの真っただ中。
このマークⅡは、ハイソ好きの兄が中古で購入して所有していた車でしたが、
兄が大枚をはたいて2代目ソアラに乗り換えることになり、
手放そうとしたマークⅡを勿体なく思って急ぎ兄から譲ってもらったものです。
先に述べた通り、自分自身に当時の楽ちん豪華装備への憧れは芽生えていて、
この機会を逃す手はないと譲ってもらったものです。
オートマ、オートエアコン、パワステ、パワーウインドウなど、現代では当たり前の装備に垂涎、
人気のイーグルマスク、王道のホワイトボディ。
車選びは無いものねだり、若かりし頃にこうした車にも乗れたことが、
将来にわたる車選びに時として影響することになったとも言えましょう。
それなりに弄りながらも約1年で手放しましたが、思い出の1台であることには違いないです。










TOYOTA CORONA COUPE 1800 EX SALOON
1986(S61)



1985年(昭和60年)8月に登場。ボディタイプは2ドアクーペ、駆動方式はFFのみ。
同時に登場したセリカ/カリーナEDの姉妹車であり、T140型コロナ2ドアハードトップ(FR)の後継車両。
また、セリカのラインアップがリフトバックのみ(ただし日本国外仕様は2ドアクーペも存在する)となってクーペが消滅したため、
その穴を埋めるためと、スペシャルティカーを持たなかったトヨペット店のラインナップ強化が導入の目的であった。
実質的にはT160型セリカの日本国内向けのノッチバッククーペ版にあたる。
しかし、セリカと4ドアハードトップクーペのカリーナEDの売れ行きが好調なのに対し、
同T160型セリカ譲りのスタイリッシュなスタイルの割に
セリカとカリーナEDの陰に隠れる感じでコロナクーペの売れ行きは不調であった。
エンジンは姉妹車と共通で2.0L DOHC(スポーツツインカム)16バルブ・EFIの3S-GELU、
1.8L SOHC8バルブ・セントラルインジェクション(Ci)の1S-iLU、
1.6L DOHC(スポーツツインカム)16バルブ・EFIの4A-GELUの3種であった。

4代目です。自身初のFF車です。
時代が生んだスペシャリティーカーであり、言わばデートカーです。
前車のマークⅡに不満は無かったものの、一番はこの流麗なデザインに惹かれたこと、
そして出会った車にはサンルーフ、オーディオなど種々の豪華装備が奢られていたこともあり、
引き寄せられるように購入しました。
低グレードのシングルカムで非力ではありましたが、よく回るエンジン、小気味よい運動性能、
走りに特段の不満はなく、そして故障もなく、楽な車だったと思い出されます。










TOYOTA COROLLA LEVIN 1600(TE71)
1980(S55)





1979年3月にフルモデルチェンジ。
2T-GEU型エンジンが搭載されたカローラのボディは、ノッチバックの2ドアハードトップ、
2種類の3ドアハッチバック(ハッチバッククーペとリフトバック)及び4ドアセダンの4タイプ。
この内「レビン」の名が冠されたのは3ドアハッチバックの2T-GEU型搭載モデルのみで、
4ドアセダンと2ドアハードトップ、リフトバックの2T-GEU型搭載モデルは、単に「GT」と名付けられた。

5台目にして、初のセカンドカーです。
この頃は、何せ走ることに疼いていて、とにかくただただ走りたいばかりの日々。
普段使用の非力でブレーキの弱いコロナクーペでは物足りなくなり、
峠専用として触手を伸ばし、運よく近場にて安価で購入できた車です。
オーディオレス、峠道を夜な夜な走りました。
NAでパワフルではありませんが、馴染んだFR感覚、そしてよく回る2TG、実に楽しかったです。
何せお金のない若い頃に無理して買ったセカンドカー、車検満了を迎え、
その後の維持費にも不安を抱えたため残念ながら手放しましたが、この体験は懐かしい日々となり、
思えば後のセカンドカー、サードカー体制に大きな影響を与えるカーライフとなりました。










NISSAN SILVIA K’s 2000(KP-S13)
1991(H3)





1991年1月、マイナーチェンジ。
エンジンが1,800ccのCA18DE/CA18DET型から2,000ccのSR20DE型(140PS)と
SR20DET型(205PS)に変更された。
そのほか、4輪操舵のHICAS IIがSUPER HICASに変更され、
タイヤサイズが195/60-15から205/60-15にサイズアップされた。
さらにトランクリッド後端中央のキーホールカバー形状を逆台形から楕円形に変更、
リアスポイラーを飛行機の翼をモチーフにした新形状に変更、
その内蔵ハイマウントストップランプには横一列配列のLEDを採用、サイドドアビームの追加、
プロジェクターヘッドランプが4連からフォグランプも含めた6連に変更、アルミホイールの形状変更、
トランク裏にトリム(内装)が追加されるなどの細かい点も変更が行われている。
内装はシートの形状が変更され、リア3点式シートベルトが採用され、ワイパーの間欠時間調整が追加、
ファッションキー(キーヘッドが丸で中に「SILVIA」のロゴが入る)の採用、
前期型で多かった女性ユーザーからの要望により従来の助手席側に加え運転席側にもバニティミラーを追加。
CMキャッチコピーは「Now Its New 2000」。

6台目です。マイチェンによる2リッター化を待ち、万を持してK’sを購入しました。
馴染んだFR感、軽い車体にSRエンジンのツインカムターボが実にパワフル、
そして先進装備のスーパーハイキャス。
このシルビアは何かとデザイン性が話題でそこに目が行きがちですが、
私にとってはこの速さが欲しかった、というのが一番の購入理由です。
長く乗りたい気持ちはありましたが、しかしながら、すぐに結婚、そして第一子誕生、
その後、幼子を伴っての毎週末の長距離移動を憂い、残念ながら手放すことに。










SUZUKI JIMNY JC 550
1982(S57)

ジムニー発売から11年で初めてのフルモデルチェンジとなり、
快適性や操作性など、乗用車としての性能を向上させた。
キャッチコピーは「Tough & Neat」
(タフ アンド ニート / タフ = 頑丈な、ニート = きちんとした、こぎれいな)で、
オフロードとオンロード性能の両立をうたっており、
カタログも男くささや野性味を打ち出した70年代とはうってかわり、
女性ユーザーをも意識したものとなった。
いくぶん柔らかくされたリーフスプリング、前向きとなったリアシート、
工具なしで簡単に前倒出来る幌モデルのフロントウインドシールド、
フルメタルドアモデルの距離計がトリップメーター付きとなるなど、
乗用車からの乗り換え組や、初心者でも扱えるよう配慮された設計となった。
同時期、すでにスズキの軽自動車のほとんどは4サイクルエンジンの「F5A型」に移行していたが、
不整地では低回転時のトルクが重要となるため、従来の「LJ50型」が継承された。
しかしエンジンの改良により、最高出力は28PSに向上し、
減速時燃料制御機構と二段式消音システムの採用で2サイクル特有の排煙と騒音を抑えている。
トランスミッションは4速MTのみ。
また、SJ30の取扱説明書にはハイオクガソリンを給油しないよう書かれているが、
これはSJ30-1型発売当時、ハイオクガソリンが有鉛ガソリンだった名残であり、
例によって「無鉛ガソリンをご使用ください」のステッカーもあるため
現在の無鉛プレミアムガソリンを給油しても問題はない。
この SJ30 型は、同じ軽自動車規格の JA71 型の登場後も、
エンジン、電装系、内装等のマイナーチェンジを行いながら、1987年まで生産が続けられ、併売された。
日本では最後のクランクケース圧縮型2サイクルエンジン搭載の4輪自動車となったが、
2サイクルならではの粘り強いエンジン特性と軽量な車重から、未だに根強いファンを持つ。
なおCMコピーでは「ジムニー」だけとなったが、SJ30 も JA71 発売以前(-3型まで)の正式な商標は
SJ10 から引き続き「ジムニー55」である(取扱説明書に記載されている)。

7台目で、シルビア所有時代のセカンドカーで、自身、2度目のセカンドカーです。
当時、職場の後輩が所有していまして、
その彼が車を乗り換えるために下取り査定しところ1万円、という話を雑談の中で聞き、
1万なら俺が3万で買ってやろうか、というノリで購入しました。
まだ世の中にネットも無く、個人売買がポピュラーでは無かった時代。
名変手続など手探りで進め、いろいろと煩わしさを感じながら購入しました。
初の2スト、まるで別次元のドライブ感覚。
速い遅いの問題ではなく、セカンドカーとしての割り切りもあり、ただただ面白くて楽しい。
白煙を吐きまくりながらも、独特のエンジン音、排気音、今となっては良き思い出です。
さすがに維持することに自信を持てなくなり、冬場を過ぎた頃の車検満了時で手放すこととなりました。










MITSUBISHI DIAMANTE 25V 2500(4WD)
1990(H2)

キャッチコピーは「あのクルマとは違う。ファースト・ミディアムカー宣言」「やわらかな、深度。」(いずれも登場当初)、
「ミディアムカーのシナリオはディアマンテがつくる。」「面白くなってきた。」(いずれもマイナーチェンジ後)。
1989年の第28回東京モーターショーに参考出品され
1990年5月にギャランΣハードトップ/エテルナΣハードトップの実質的な後継車として発売された。
開発当初は、国内向けハードトップ(Σハードトップの後継車で、5ナンバーサイズ)と、
海外用セダン(豪州マグナの後継車で、3ナンバーワイドボディ)の2種類を計画していたが、
開発中に税制改正の時期等の情報をいち早く入手し、
全車3ナンバーワイドボディとして発売した(後にセダンは三菱・シグマとして、国内でも発売した。)。
これにより、競合他社(特に前年秋にアコードインスパイア/ビガーを発売したばかりのホンダ)を出し抜くことに成功した。
当時、このクラス(上級小型車もしくはアッパーミドルクラス)に属するセダンは、
前出のホンダを除いてFRの駆動方式を採用するのが定番であったが、
ディアマンテはΣを踏襲したため、FFの駆動方式を採用。
また、発売当初より4WDの設定があり、当時の上級セダンでは珍しかった(後にはFFのみの設定となった)。
その後FF3ナンバーサルーンはディアマンテの大ヒットに触発されてトヨタ・ウィンダム、
マツダクロノスシリーズ、日産・セフィーロ、ホンダ・アスコットイノーバ等が追従し、
FF3ナンバーサルーンを当たり前のものにした。
当時のBMW風な逆スラント型ノーズをはじめとするスポーティな3ナンバー専用ボディーに、
マルチビジョンや三菱インテリジェントコックピットシステム、電子制御サスペンションに4WS等のハイテク装備を多数採用、
排気量2.0Lから4.0Lまでの自動車税の見直しに合わせ、
税区分に合致する3種類のV6エンジン(3.0L、2.5L、2.0L)を投入し、比較的低い価格帯で
FF以外に4WDも(当時このクラス以上のセダンで4WDが選べるのは画期的であった)選べた選択肢の広さもあり、
ユーザーの好評を得て1990年-1991年日本カー・オブ・ザ・イヤーも獲得する。
GTO/3代目デボネアはこの型のディアマンテをベースに作られている。

8台目です。
シルビアのところで書いていますが、結婚と第1子誕生など、生活環境の大きな変化に影響され、
4ドアセダンで中古車市場を物色したところ、たまたま近場の中古車屋で現車を見かけて購入しました。
私が買ったのは、2.5のV6で4WD、やはり一番の魅力は外観です。
BMWを真似たと揶揄する風評もありましたが、それまでの国産車にはない雰囲気、オーラがあり、
高級セダンとしての独特な立ち位置を確立。さらに魅力的なのが、ダイナミックなインパネ周りの内装。
こうしたデザインに満足し、自分もようやく高級セダンを乗るようになったのだという満足感にも浸ることができつつ、
雪国にあって初めて乗る4WDは実に重宝しました。
見た目の通りワイドアンドローですが、全長は案外短く、室内では後席の足元が狭いことがネック。
あと、お世辞にも燃費は良くないです。
しかしながら、繰り返しになりますがこのデザインと渋いボディカラーには満足。
前車のシルビアとは真逆の性格ながら、そうしたところにも新鮮味を感じ、
車重があることが思いのほかドライビング感覚に重厚さを与え、
高速を緩めに流すクルージング感覚にも浸れる車でした。
その後、あるきっかけで乗り換えるまでは故障もありましたが、楽しく乗れた、思いで深い1台です。










SUBARU VIVIO RX-R 660(KK4)
1995(H7)



1992年3月 - レックスの後継車として「ヴィヴィオ」(A型)登場。
型式は乗用モデルのFF車はKK3、4WD車はKK4、商用モデルのFF車はKW3、4WD車はKW4となる。

9台目です。ディアマンテのセカンドカーとして購入、自身3台目のセカンドカーです。
きっかけは、親戚が所有していた初代ホンダトゥデイのMTをドライブしたこと。
それまで、以前に遊び気分でジムニーを所有したこと以外では軽自動車には全く興味がなく、
軽は軽と下に見ていた感じだったのですが、そのトゥディをドライブしてそうした考えは一変しました。
小さい車体で軽量、よく回るエンジン、軽快なハンドリング、
ドライヴィングの楽しさと車との一体感を思い知らされる出来事でした。
軽は面白い、そして気持ちは大きく動き、
セカンドカーとしてヴィヴィオのホットモデルであるKK4を選択。
耐久ラリーでの活躍ぶりの印象が強かったところ、
スーパーチャージャーというNA感覚の過給機に興味を惹かれ、購入しました。
実際、乗ってみて、軽としては速いレベルでしたが、それほど驚くものでもなく、
オールマイティな乗りやすさも兼ね備えた実用的なホットモデルと言えるでしょう。
後年になりますが、同じ道で限界まで攻めた時のスピードレンジでは
カプチーノが圧倒しているということもわかりました。
やがてヴィヴィオは、自分にとっての足車、ファーストカーとなり、そしてディアマンテがセカンドカー化となって、
その後の再び大きな生活環境の変化が来た際に両車とも手放すことになります。
しかしながら、トゥデイとのシーン、このヴィヴィオとの経験は、
その後から現在までのカーライフに大きく影響しました。
そのときどきで、何に影響され、左右されるか、つくづく思い知る一時期でした。










HONDA ODYSSEY TYPE L 2200(4WD)
1995(H7)

1994年10月20日に発表された(発売は翌10月21日)。
発売当初の月販目標台数は4,000台程度と控え目であったが、予想外の大ヒットにより、後に生産ラインも増強された。
当時のミニバンにはない独特な乗用車的プロポーションが特徴であった。
シフトレバーは、コラムシフトを採用し、前席から後席へのウォークスルーを可能にしていた。
エンジンはF22B型のみの設定で、アコードに設定されていたVTEC仕様は後のマイナーチェンジの際に採用された。
トランスミッションは「プロスマテック(TYPE II)」と呼ばれる4速ATが搭載された。
増加した車重に対して最終減速比を高めたため、エンジン回転数は若干高めであり、以後のモデルに対して燃費が劣る。
ホンダの同排気量クラスの車の中では珍しく、
タコメーターが標準装備されなかったため、発売開始から半年後に純正オプションとして用意された。
グレード体系は「B」・「S」・「L」の3グレードで、「B」は7人乗り仕様のみ、「S」と「L」は6人乗り仕様と7人乗り仕様が選べる。
それまで、排気量2L以上の3ナンバー普通自動車クラスの販売台数では、
長年の首位を維持していたトヨタ・クラウンを抜き去り、1995年には、12万5,590台の販売台数を記録。
1994年には日本カー・オブ・ザ・イヤーの特別賞を、1995年にはRJCカー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
ヒットを後押ししたのはハード面だけでなく、当時、映画化された「アダムスファミリー」の出演者を総動員した
販売戦略としてのソフト面での成功もある。

10台目です。ディアマンテとヴィヴィオを手放し、この車両に一本化。しました。
引き続き4WD、初のミニバン、初のコラムシフト。
つまらないトラブルが多かったものの、使い勝手は申し分なく、何かと重宝しました。
購入のきっかけは第3子誕生です。
家族が増え、いろいろと物入りとなり、世はミニバンブーム、生活環境に合わせて割り切った感じで購入しました。
4WDであった分、目線が高く、長距離で疲れることもあまり無かったです。
しかしながら、最大の弱点は高速での走行安定性。
一般路でハンドリングを期待する車両でないことは分かっていましたが、
高速路の中高速コーナーでは心臓バクバク、特に横風が強い時などは真っすぐに走らせることにも気を張りました。
何年も乗っていると、その苦しさばかりが募り、手放して初の輸入車へ乗り換えることとなったわけです。
思い返すに、車選びはつくづく無い物ねだりですね。










MITSUBISHI LANCER EVOLUTION Ⅵ GSR 2000(4WD)
1999(H11)





1999年1月22日発売。型式名"GF-CP9A"。通称"エボVI"。
キャッチコピーは“次の頂点へ、進化していく。”
卓越した運動性能で好評を得たエボVをベースに、さらに高次元な細部の熟成によるポテンシャルアップを図ると共に、
'99WRCラリーレギュレーションへ対応するための外観変更を含めた内外観のリフレッシュを図るため開発された。
空気抵抗および冷却性能、またフロントリフトの改善を目的として、ナンバープレート位置を中央から左側に変更、
フォグランプの小径化などによる前面開口部形状の拡大、リアウイングの2段化で、空力が改善された。
しかし、WRC Gr.A規定では問題なかったが、翼面積がWRカー規定の2倍近くになるとしてFIAが指導したため、
下段とトランクの間にある隙間をカーボンケブラーで塞ぎ、上段ウィングのみが機能するようになっている。
前モデルのエボVで、硬めにセッティングされた足回りが街乗りには向かないことが不評であったため、
フロントサスのロールセンター軸をエボV比で30 mm低く設定することで、多少ソフトなセッティングに変更された。
しかし競技目的には向かず、全日本ラリー等ではエボVに勝つことができないという、ある種の「退化」を起こしている。
ただし競技用グレードのRSではエボVと同セッティングの足回りがオプションで選択可能となっていた。
エンジンの馬力・トルクはエボVと変わらないが、
冷却オイル路内蔵のクーリングチャンネル式ピストンの採用や冷却水レイアウトの変更、
オイルクーラーの大型化、オイルクーラーベンチレーターやエアブローダクトの採用など、
エンジンの耐久性と信頼性を向上させている。
また、RSには純正でチタンアルミ合金製タービンが採用され、タービンブレードの慣性力を50%低減している。
その他、このVI以降はRSでもオプションでAYCが選択可能となった。
用意されたボデーカラーは、スコーティアホワイト、サテライトシルバー、ピレネーブラック、アイセルブルー、ランスブルー。
WRC Gr.Aに1999年第1戦モンテカルロから2001年第10戦ニュージーランドまでの38戦に参戦し、
1999年シーズンは第1戦モンテカルロ、第2戦スウェーディッシュ・ラリー、
第4戦ポルトガル、第9戦ニュージーランド、第12戦サンレモで優勝し、
3年連続となるドライバーズタイトルをトミ・マキネンが獲得した。
2000年シーズンは第1戦モンテカルロで優勝し、
第9戦ニュージーランドからはフロントバンパーがTMEを模したものに変更された。
2001年シーズンは第1戦モンテカルロ、第3戦ポルトガル、第8戦サファリで優勝したが、
セディアベースのWRカーへの移行に伴い、市販のランエボをベースにしたワークスマシンの系譜は終焉を迎えた。

12台目です。そして、僅か3か月で手放しました。
ハイパワーの4WD、誰もが知り得るエボに乗ってみたい、所有したいという衝動的な理由から、
オデッセイとカプチーノを所有したままで購入しました。言わば3台体制です。
一言で言えば、圧倒的な速さです。
乗り出した最初は、そのパワーと速さに圧倒されましたが、
幾度かドライブする内に自分のほうが慣れていき、
やがてAYCを使っての限界+アルファの走りまで到達しました。
そして、なるほどこう走らせるのか、と分かったところで突然、飽きがきてしまったのです。
まるでカプチーノとは対極、この車は誰でも速く走らせられる、
そう思ってしまってから、突如として熱が冷めてしまいました。
単純に、面白くなくなってしまった、という感じです。
本来、3台体制は考えていなかったので、頃合いを見てオデッセイを手放す考えでしたが、
先の思いからエボを手放すことにしました。この時の判断に迷いはなかったです。
恐らく、年を重ねた今になって所有すれば、また違ったアプローチで楽しむかもしれません。
しかしながら、少なくとも公道の条件下で自分の感覚を車両に落として走らせる車ではない、
という考えは今も変わらないと思います。
知らないよりは知ったということは大きく、長い目で見れば、良い経験をしたと思います。










VOLKSWAGEN GOLF Ⅳ GTI 1800(FF)
2000(H12)

フォルクスワーゲン会長フェルディナント・ピエヒ主導による高級化路線の影響を受けたモデル。
塗装やボディパネルの継ぎ目、各パーツの組み付け精度など内外装ともに品質が格段に向上した。全幅は1,700mm超となった。
プラットフォームはフォルクスワーゲン・ボーラアウディA3、TT、シュコダ・オクタビア、セアト・レオンなどと共通。
全体に純亜鉛メッキを施され、高張力鋼板を多用、それをレーザー溶接で接合する事から飛躍的にボデイ強度や安全性が高まった。
一部のグレードは旧東ドイツのモーゼル工場製がある。ドイツ統一後の東側地域産業復興の象徴として製造もされた。
ニュービートルに次ぐRラインとして設定されたR32は本モデルより登場し、
日本へは2ドア(左ハンドル仕様)が500台、4ドア(右ハンドル仕様)が400台の限定にて輸入された。
初期型のアウディ製1.8リットルDOHCエンジンを搭載したグレードは好評であったものの、
高コストな5バルブエンジンであったこと、日本の道路事情を考慮してATとのマッチングを重視したこと等から、
初回のマイナーチェンジで、旧世代の低回転域トルク型2.0リットルSOHCエンジンに変更されたが、一部の自動車評論家に酷評された。
(ゴルフIIIではカウンターフローだったものを、クロスフローに改良した後方排気エンジン)

13台目です。オデッセイからの乗り換えで、自身初の輸入車。
輸入車への関心はかねてからありましたし、一度は乗りたいと考えていました。
国産とは一線を画す走行安定性は大きな魅力です。
いろいろと思案している中で、地元の中古車店でこのGTIが売りに出ていたため、さほど予備知識もなく購入。
結局、10年乗ることとなりました。最初の試乗で、カタログ数値以上のパワーを感じ、取り回しはよく、好印象。
最初はノーマルで乗るつもりでいましたが、社外パーツもたくさんあり、徐々に弄ることに。
結局、あれもこれもと弄って、ドレスアップやライトチューン感覚では、全てやり尽くすほどに没頭しました。
しかしながら、トラブルが非常に多く、経年とともに財布が厳しくなったのも事実。
この初期型のゴルフⅣは歴代の中でもトラブルが多いということも学習し、
輸入車特有のマイナス面もすっかり熟知し、よく言えば学んだ車であり、悪く言えば随分とハズレを引いたものだと後悔したものです。
それでも、この車を乗り続けたのは、初期GTIにのみ設定されたガンメタ色、純正でレカロシート、
BBSアルミ、純正で8スピーカー装備など、何かと満足させられるオンリーワン的な要素も多かったからです。
先に述べたとおり、一番には車検整備以上に費用がかかることとなり、10年という区切りで手放し、クラウンへ乗り換えました。










TOYOTA CROWN ROYALSALOON 2500(FR)
1999(H11)

キャッチコピーは「美しく、走る。日本のクラウン。」
この代からロイヤルシリーズにもフルモノコックボディーを採用。これにより、先代モデルと比較して100 kg以上の軽量化となる。
保守的な流れを汲みながら運動性能の重視へと方針転換が明確に現れたモデルである。
3 L車は2JZ-GE(VVT-i)エンジン搭載。ハードトップ(個人向け、その他)、セダン(法人・公用車、キャブ仕様、その他)の
フルラインナップ化(ロイヤルサルーンG-スタンダード)を果たす。
コスト削減が図られ、ロイヤルサルーンGにあったエアサスペンションは廃止され、
プラットフォームはマジェスタとともに90系マークIIのものと共用することとなった。
この代をもってピラードハードトップは最後になった。
グレードは「ロイヤルサルーンG」「ロイヤルサルーン」「ロイヤルツーリング」「ロイヤルエクストラ」。
主力となる4ドアハードトップはグレードが整理され、廉価グレードは全て「ロイヤルエクストラ(Royal Extra)」に統一された。
海外輸出はセダン系が多い中で、アジアの一部地域(香港・シンガポールなど)に少数のハードトップの輸出もある。

16台目です。
前車ゴルフを10年乗り、途中、弄りすぎたこともあり、とにかく故障と出費に悩まされ、
壊れることの少ない、壊れても分かりやすい車が欲しくなりました。
10年という区切りもあり、国産へ戻ることに。そして選んだのはクラウン。
父が、長年、歴代クラウンを乗り継いでいたこともあり、
そして私もよくそのクラウンをドライブしていたこともあり、その歴代の特性の変化や、個性などはおおむね熟知していました。
この10代目クラウンは、父が乗り継いだ狭間で抜けていた世代で、私自身は昔から好きだったデザイン。
地元の中古車屋さんにて格安で売りに出ていたこともあり、現車の程度も良かったので、ほぼ即決。
その後、3年乗りました。
良いところばかりですが、最大の難点はボディの弱さで、この点はゴルフからの乗り換えで覚悟はしていたものの、
さすがに高速域のドライヴィングは不安定、強い横風では挙動不審、
一定速度以上でのドライヴィングの魅力を楽しむには程遠かったです。
ゴルフの楽しさが体に染みついたままであったため、安定したドライヴァビリティに戻りたいという強い願いから、
その後、剛性の高い世代のクラウンに乗り換えることになりました。
しかし、この直線的な雰囲気を始めとする内外のデザインには満足していました。





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